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2005年5月13日(金) 揺れる画面
(カメラマン)安井 健二
きょうは被爆者の原 広司さん(73)を取材。原さんはこれまでに原爆ドームの絵をなんと1500枚以上も描いた。2度のガン手術を乗り越え、この枚数に到達したそうだ。今でも証言活動をしながら、原爆ドームと向き合って描き続けている。その中から80点の作品をおさめた原爆ドーム画集も自費出版した。(画集の問い合わせは 原 広司さん 電話/FAX 082-888-1045) 「原さんの思いを少しでも伝えたい」カメラを持つ手に少しずつ力が入る。力みのせいか額に汗が吹き出す。ん? さらに、なんだか全身からイヤ〜な汗も…。そういえば、朝からのども痛かった。ヤバイ。まちがいなくカゼだ。原さんをはじめ、まわりの人にうつす訳にはいかない。そう思い、会話には極力加わらないようにして、どうにか取材を終えた。 ほかの仕事を終えて、午後11時過ぎに会社に帰ると、新人カメラマンの湯面君(※“ゆうめん”と読みます)が、研修で撮った画を見てほしいとやってきた。1時間前から悪寒もしていたが、“かわいい後輩”なので、とりあえずプレビューした。すると、なんだかモニターがゆらゆらと揺れて見えてきた。 安 井:「画面が揺れて見えるんだが…」 湯面君:「すいません。カメラがふらふらしているんです。」 いまだに彼の肩の上に乗せたカメラは安定しないらしい。カゼで頭がボ〜ッとしてきたせいではなかった。よかった。よかった。だが、先輩としては複雑な気持ちだ。 ちなみに今、この日誌を書いている横で湯面君は先輩の罵詈雑言にくじけず、撮影の練習をしている。早く一人前になれるようにがんばれよ…
2005年5月12日(木) GWに体力で勝負する
(カメラマン)香川 久路
ゴールデンウィーク終盤、私の3日間です。▽5月5日(晴れ) 午前中、安佐動物公園で動物と子どものほのぼのとした取材を終え、昼ニュースで放送。社員食堂で昼食をすませ、喫煙場所で一服していました。すると、カメラデスクから「宮島の霊火堂で火事、すぐに現場へ」との指示。“山火事に燃え広がるかも”との不安が頭をよぎりました。多めにバッテリー、テープを用意して会社を出発。 (現場へ向かうタクシー) 私 :「宮島ロープウェーが動いてなかったら(現場まで行くのは)最悪じゃ」 記者:「下から歩いて登ると、どれくらいかかる?」 私 :「2時間くらいかな」 記者:「・・・」 宮島に着くと、ロープウェーは動いていて、ひと安心。頂上の駅で降りると、いったんは下り道、あとはずっと険しい上り道です。宮島の弥山取材といえば、カメラマン泣かせの登山道。最初こそ全員早足でしたが、時間とともに会話はなくなり、聞こえるのは「ハー、ハー、ハー…」という息づかいのみ。 ようやく「こっちに水まけー!」という消防団員らしき声が聞こえ、「もうすぐじゃ〜!」と思ったものの足はもう限界。現場に着いていざ撮影開始のはずが、汗が出るわ出るわ、息は切れるわ切れるわ。さらにカメラは揺れる揺れる。三脚を使って撮影、なんとか映像を電送して、夕方のニュースに間に合わせました。 (帰りのタクシー) 全員:「zzzzz…」 ▽5月6日(雨) 午前中、広島市現代美術館で心やすらぐ作品を撮影。昼ニュース後、カメラマン連中と社員食堂で食事をしていると、ケイタイ電話が鳴りました。 カメラデスク:「いま、どこにおる?」 私 :「地下食堂でメシ食ってます」 カメラデスク:「じゃあ、すぐに宮島に行って!」 もしかして、また弥山登山? 報道センターの大部屋に戻ってみると、カメラデスクに声をかけられました。「連日の山登りご苦労さまじゃけど、がんばってね」。 ▽5月7日(晴れ) 深入山で登山取材をしました。 3日連続で山登り。肉体的には悪い夢を見ているようでした。
2005年5月11日(水) 辞令 報道センター配属
(記者)吉住 啓一
報道センターで、新入社員3人の研修が終わって2週間。こちらにきょう、私は配属されました。担当は社会班。“新人記者のスタートは県警記者クラブから”というのが慣例なのだそうです。これまで警察署の中に入ることはあまりなかったので、ピリピリとした雰囲気に少し緊張しました。記者クラブには報道機関各社の記者が詰めていて、慌ただしく仕事をしています。予想以上に毎日多くの事件が発生していて、ニュースになるのはその中のほんの一部だということを初めて知りました。 明日はさっそく取材に行くことになっています。さすがに2日目から1人で、とは思いませんでした…。 右も左も分からず、これから毎日が勉強の日々です。不安な事も多いですが、正確なニュースを皆さんにお届けできるようにがんばりたいと思います。よろしくお願いします。
2005年5月10日(火) やっぱりデスクワークよりも
(カメラデスク、カメラマン)平尾 直政
気がついたら入社20年目に突入していました。報道カメラマン一筋20年。…といえば聞こえがいいけど、単に人事異動がなかっただけ? 一貫して報道映像現場に身を置いて、ある意味、シアワセな生き方をさせてもらっています。この20年の間に報道の世界も大きく変わりました。カメラとVTRが分離して2人がかりで操作していた取材カメラは一体化して、どんどん小さくなりました。お父ちゃんの弁当箱くらいの大きさだった取材テープもどんどん小さくなって、ワイシャツの胸ポケットに入るくらいに。 そのうえ、家庭用のデジタルビデオカメラは昔のプロ用カメラの画質を超えています。ひと昔前なんて、放送するときに“家庭用ビデオで撮影”なんてスーパーを入れるのが当然だったのに、今やどこのテレビ局でも家庭用ビデオカメラ抜きに番組制作が考えられないくらい浸透しています。 かく言う私も、家庭用デジタルビデオカメラの愛用者。(趣味ではなくて、仕事でね)今回は全国ネットの30分番組のほとんどのシーンを家庭用ビデオカメラで撮っちゃいました。《5月8日(日)放送『生きる×2 バカになろう!』》 どこでも気軽に持ち歩けて、さっと取り出して、撮影できる小型ビデオカメラは、次に何が起こるかわからない状況での撮影に向いています。技術の進歩で映像はとってもきれいです。しかし小型カメラが万能かといえば、全然そうではなくて、音声をクリアに録る事は、やっぱりとっても困難です。ただ漠然とカメラを回していたのでは、いくら撮っても番組を完成させる事はできません。 道具は変われど、番組づくりの心は変わらず。 「フットワークは軽く、目の前のできごとには臨機応変に対応しながら、 考えるところはしっかりと…」 「どのように撮るか・・・ではなく、何を撮るかが大切だ!」 駆け出し時代に先輩から言われた言葉をかみしめながら、きょうも取材に出かけます。えっ?たまにはデスクワークをしろ? いやいや.....((((((;^_^)ノ ニゲロ〜
2005年5月9日(月) あと89日
(広島市政担当キャップ)森元 たか子
ああ、また月曜日が来てしまった。…などと言っている場合ではない。広島市政を担当している私は今、被爆60年の今夏放送予定の 原爆特別番組に取り組んでいる。原爆投下から60年。報道する側も原爆を知らない世代ばかりとなり、毎日悩み、迷いながらの取材だ。 被爆者の方自身も60年という長い年月の間に自分なりに心の整理をつけられたのか淡々と語ってくださる。もちろん、決して悲しみの核心は消えていないはず。にも関わらず、上手く聞き出せないままに取材が終わってしまう。 もどかしい。どうすれば被爆体験が伝わるのか。何を伝えればいいのか。 RCCのライブラリーを訪れ、先輩たちがつくった過去の数々の原爆報道番組を見ると、本当に頭が下がる。取材力と情熱が違うのか。
まずい。なんだか重苦しい気分になってしまった。夜も更けてきたし、帰るとするか。 …と思い報道センターを見渡すと、社会班の記者たちが明日の裁判の準備、そして境編集長は深刻な顔で何やら原稿チェックをしている。みんな、がんばっているな〜。よし。悩んでばかりいないで明日もがんばろう!
2005年5月6日(金) 国連取材 今昔
(報道技術担当)上野 勲
今月2日、ニューヨークで始まったNPT再検討会議をRCCからは若い友定記者が取材した。思い起こせば、第1回国連軍縮特別総会が開かれたのは1978年のことだった。RCCはこの時初めてENGカメラでの取材と衛星生中継を実施したのだ。さらに被爆米兵の取材用に16mmフィルムカメラも持って行った。外務大臣が報道陣を招いて、ちょっとしたパーティーの場を設ける、そんな時代だった。同行記者団の間では「洋酒の持ち帰りは6本までは免税だそうだ」とささやかれていたが、 私たちは別便なので真偽のほどはわからない。1ドル250円の時代で、帰国時は円高で220円にまで上がり為替差損に泣いた。
RCCが本格的にENGカメラを導入したのは翌1979年からである。当時はカメラとは別にVTRがあるシロモノで、カメラマン1人に助手が2人も必要だった。1983年頃、ようやくVTRと一体化した。とはいえ、最もカメラが重かった時は11kgもあって腰痛を抱えたカメラマンも多かった。1988年頃からは、ほぼ現在の形になっている。現在、放送局用カメラはHD(ハイビジョン)になり、家庭用ビデオもプロ用と見まがうほどに性能が上がってきた。もちろん携帯電話やメールはニューヨークも国内も変わらず使える。様がわりしたものだ。かつては海外取材といえば、辞令をもらっていたが、いまや誰がどこに行っているか、よくわからない。 さらにカープ日南キャンプをインターネット回線で中継する時代だ。その回線を使ってHD伝送も可能になってきている。海外からインターネットで素材映像が送られるのも時間の問題だろう。 16mmフィルムカメラを回せるカメラマンは、現場にはもういない。
2005年5月5日(木) 眠らない街N.Y.から
(記者)友定 真治
ニューヨーク滞在6日目、思わぬ事件に遭遇しました。宿泊しているホテルのすぐ近くで“爆発物騒ぎ”がありました。未明に英国総領事館の前で、爆発があり窓ガラスなどが壊れたそうです。私自身は完全に熟睡中で、音は聞こえませんでした。ヘリコプターの音で一瞬目を覚ましたのですが、「眠らない街ニューヨークでは、夜中にヘリコプターも飛ぶんだろう…」と妙に納得してしまい、そのまま就寝。朝起きるとニュースが各局現場から中継。「おいおい、すぐ近くじゃないか!」と驚愕しました。 広島で同じことが起きれば、かなり騒然となることは間違いないでしょうが、ニューヨークでは現場付近の道路が一時閉鎖されただけで、その日の午後には平穏に戻っていました。職業柄、何か起きるとソワソワして仕方がないのですが、地元の警察の捜査もかなり進んでいる模様。この文章を執筆中、地元のテレビでは警察の記者会見を中継で伝えています。話の意味はわからないけど、警察幹部の顔には笑顔が…。何か進展があったのでしょうか? それにしても、こんな身近で“爆弾騒ぎ”に遭遇するとは…。
2005年5月4日(水) ニューヨークからの便り
(記者)友定 真治
先月の30日からアメリカのニューヨークに来ています。恥ずかしながら生まれて初めての本格的な海外訪問。毎日が刺激的です。さてアメリカの経済・文化の中心地ニューヨークですが、私が毎日体験している食べ物事情を報告させていただきます。といっても、実は頻繁に日本食を食べているのです。日中に取材をして、JNNのN.Y.支局から広島に映像を伝送し終えるのは、いつもこちらの時間の夜遅く。その後、支局の方と「食事でも…」ということになるのですが、いつも足は“IZAKAYA”に向いています。 さすがニューヨークには日本人も多いようで、居酒屋に入ると店員は「いらっしゃいませ!」と迎え、こちらは「とりあえず生!」と注文します。店内にいる会話も日本の居酒屋とまったく変わらず、夜毎“日本人ニューヨーカー”の愚痴と熱い演説が繰り広げられているようです。強いて違うものは、メニューの表示が“$”ってことぐらいでしょうか…。 肝心な味については…、ご想像にお任せします。でも、摩天楼の中に点在する完全なJAPAN空間のおかげでかなり癒されています。
2005年5月3日(火) おばちゃんのスポーツコラム『清原500号にかこつけて』
(eスポーツ担当、“ペ・ゆみこ”)國井 由美子
★なぜそこでカープなのか!?古田2000本安打に清原500号ホームラン、この歴史的な瞬間をいずれもカープが目の当たりにしてしまった。というか自ら演出してしまった。まさに今年のカープは当たり年。何かが違う。清原に500号を打たれてしまった広池投手は、甘い球だっただけにさすがにガックリきていたそうだが、カープ選手にとっては貴重な体験、奮起につながるのではないでしょうか。古田選手に花束を渡した野村選手は「次はオレなのだ」と“ひしっ”ときたでしょうし、清原500号達成でカープファンもいっしょになって満員の広島市民球場がうねりとなって記録を称えたのには、選手もファンも感動したでしょう。何より清原選手自身が泣きそうでしたもんねえ。全国にも広島ファンの温かさが伝わったでしょうね。 ★それ、テレビ中継しました! 清原500号の日、RCCから全国へ向けてテレビ中継をしていたので、RCCのカメラでその瞬間を全国に伝えることが出来て、これまた感動だったんです。去年のプロ野球再編問題で明るみに出たように、巨人戦の中継というのは放送局にとって特別なものなんです。いつもはローカル放送ですが、巨人戦となると全国放送ですし、シーズン中、ローカル局の陣容で巨人戦を放送することができるのは、全国でも私たちの系列では毎日放送とCBCとRCCだけなんです。そりゃミスも許されないし責任重大、緊張で下痢しますもん。その興奮とドタバタはまた後日… 願わくば、今シーズン巨人相手に優勝戦を全国中継したいもんだぜ。いやいや今年はミラクルくるかもよ! ★ところで…
私ごとですが、先日4月30日、誕生日を迎えました。これってスゴイんですよ。何がスゴイかって? 何と4月30日って「430」ヨンサマの日なのです!!! もう運命としか言いようがありません。そう、結ばれる運命…。ということで、会社の先輩と友達が誕生日会で「ヨン様ケーキ」をプレゼントしてくれました! 某プランタンの特別製。友達が粘ってねじ込んで頼んでくれたそうです。これが超よくできてまして、感動で涙が止まりませんでした。作るのもたいへんでしたでしょうに…。みんなありがとう! そして、ヨン様食べちゃった、ゴメン。絶品でございました。来年は本物と祝いたい(ペ・ゆみこ)
2005年5月2日(月) 報道ヘリコプターは広島が全国一?
(報道技術担当)上野 勲
JR福知山線の列車脱線事故を見て、阪神大震災を思い浮かべた人は少なくないと思います。あの時も上空を数え切れないほどのヘリコプターが飛んでいました。ところで、広島地区のヘリコプターはやっと台風の後始末が済んだところといったところでしょうか。昨年9月7日の台風18号で、広島西飛行場にいた報道各社の機体はすべて海水に浸かりました。自動車なら全損買い替えというところですが、高価なヘリコプターはそうもいかず、各社とも修理することに…。4月上旬までに各社とも、なんとか復帰しています。ちなみに、この間にRCCに続いて、2つの局がHD(ハイビジョン)対応の機体に切り替えました。西飛行場には、東京よりも多い、3機のHDカメラを搭載した報道ヘリコプターがそろうことになりました。 意外と知られていませんが、広島で報道ヘリコプターを最初に導入したのはRCCで、昭和37年、3人乗りの「G2」と呼ばれるレシプロ・エンジン機でした。昭和38年の豪雪では人命救助でも活躍。昭和47年の豪雨では、三次の惨状を取材したあと、雨雲を避けて、川沿いにやっとの思いで帰ってくるといったこともありました。他局が機体を導入したのはRCCより10年もあとのことでした。 ![]() 大きな事故・事件があるたび報道の速報性が叫ばれ、報道ヘリコプターも大型化、高性能化が進んできましたが、広島のヘリコプターが一番大きく変わったきっかけはちょうど5年前のGWに起きたバスジャック事件でした。これ以後、機体に中継装置と耐震カメラは常識になりました。しかし半面、騒音問題や取材中の事故などの問題も急増しています。RCCが現在使用しているヘリは6機種目で、世界でもっとも静かなヘリと言われているMD902型です。低高度を飛ばなくてもよいように、高倍率ズームも備えていて、これまで無事故でやってきました。私がRCCでは一番の滞空時間保持者だと思っていますが、後輩にはこう言い続けています。 「命より大事な特ダネはない」 「ピュリツァー賞を取って死ぬより、無名でも生き残ったカメラマンのほうが偉い」 それでも、現場には一番に到着したいし、決定的瞬間を逃したくないのですが…
2005年4月29日(金) 500本塁打の瞬間、清原選手は…
(カメラマン)岡茂 幸男
清原選手、500本塁打達成おめでとうございます! ゴールデンウィーク初日、広島市民球場は2万6千人の観客!(毎試合こんなに入ればなぁ)。ジャイアンツはここまで6連敗中、清原選手も499本を打ってから6試合足踏み。みんな500本目を期待してるけど今回はダメだろうなぁと、勝手に思っていたその時―「カキーン!」 私は“下カメ”(1塁側ベンチ横のカメラ席で撮影、下で撮るから下カメ)でした。“下カメ”の役割は、選手のプレーや監督の表情等を一球ごとに狙うことです。もちろん私は清原選手のプレーを撮っていました。入った〜!!! バックスクリーンに! 私は清原選手の狙い続けました。うれしそうに1塁コーチとハイタッチ。ダイヤモンドを走り抜け、花束をもらい、ファンの声援に応える清原選手を私も必死で撮り続けました。 500本塁打達成、二度とないこの瞬間。もし撮り逃したら…、そういうプレッシャーの中、毎日撮影しています。これからは今回はないだろうなぁではなく、“その瞬間を自分が撮るんだ”と強く思うようにしたいです。まだシーズンも序盤です。カープも優勝に向けてがんばっています。打線は好調、投手陣はもうちょっと。しかし、“カープ優勝の瞬間を撮るんだ”と願い続けます。
2005年4月28日(木) お会いしたかったのに…
(記者)井上 恵子
報道記者になって約3か月。簡潔な分かりやすい原稿を書くのは、思った以上に難しく、あれもこれもと、ついつい長くなる原稿を短くするのに苦労しています。ささっと原稿が書けるようになるのは、一体いつになることでしょう…?ところで、印象に残っている取材を挙げるなら、今、広島市中区のアーバンビューグランドタワー『ギャラリーG』で開催中の展示会でしょうか。取材後のできごとが忘れられません。 展示されているのは岡本太郎『明日の神話』の“下絵”です。『明日の神話』は縦約5m、横約33m。テーマは人間と核。原爆が炸裂した瞬間を描いたもので、副題も『ヒロシマナガサキ』です。岡本太郎さんが1970年の大阪万博のシンボル「太陽の塔」を制作したのと同じ頃、メキシコのホテルのために手がけたものだそうですが、ホテルが開業前に倒産したため、35年ものあいだ行方不明になっていた作品です。それが一昨年メキシコで発見され、岡本太郎記念館の岡本敏子館長らが中心となって日本に持って帰り、“しかるべきところ”に展示しようという運動が進んでいました。被爆60周年の今年、地元ギャラリーの企画展として『明日の神話』の広島誘致の機運を盛り上げる目的もあったのです。(既に長崎、尾道が誘致に名乗りを挙げているそうです) 館長の岡本敏子さんも“この絵を一番ふさわしい広島へ”という思いがあったようで、開幕レセプション(4月19日)や広島の皆さんとのトーク会(5月8日)に参加するはずでした。私は開幕前日の記者会見を取材していました。敏子さんは約50年にわたり岡本太郎さんの秘書を勤め、のちに養女となった方です。興味を持った私は5月8日は、ぜひお話をうかがおうと思っていました。 ところが4月20日、岡本敏子さん死去のニュースに接しました。ショックでした。開幕に敏子さんがお見えにならないので、ギャラリーGの担当者が岡本太郎記念館に連絡、職員がマンションを訪ねたところ、既に亡くなっていたということです。いろいろな意味で本当に残念です。 その後、展示会には多くの人が訪れ、募金にも協力して下さっているそうです。スペシャルトーク『岡本太郎とヒロシマ』(5月8日午後2時県立美術館)は、岡本敏子さんのことも偲びながら行われることになりました。これからこの壁画はどうなるのか、とても気になります。
2005年4月27日(水) 見えないモノが、見えてきた?
(カメラマン)池田 知久
女子大生、初めての一人暮らしを取材した、『あんぐるe・永遠の四月物語』。今日OAがありました。18歳の女の子を撮影。カメラマンのお仕事は彼女の素顔を表現すること。ほかの取材の都合で、完成までにカメラマン数人が足を運ぶことになった“中年メンバーのコラボレーション”です。 私自身は、女子大での長時間撮影の結果、10歳は若返ったような気がします。ぜひ、おじさん世代に見てもらいたいなと。ご自分の娘さん、あるいは、それぞれの“あの頃”に思いを馳せていただければ、と思います。 主人公の雅子さん、それから、彼女をとりまく皆さんの協力あっての賜物です。本当にありがとうございました。 ついでながら、明日(28日)は尾道でロケです。『え?チャイダーって何だー!?』…それは見てのお楽しみです。おもしろいですよ、かなり!!!
2005年4月26日(火) おばちゃんのスポーツコラム「パク・ヨンハ狂騒曲」その2
(eスポーツ担当、“ペ・ゆみこ”)國井 由美子
4月18日、パク・ヨンハファンミーティングin広島市民球場。パクちゃん(すみません、すでにこう呼ばせていただいてます)登場で熱狂に包まれた後、アクシデントが起こりました。気持ちよく1曲目『期別』に酔っていたとき、パクちゃんが急に歌うのをやめて手を振り始めました。ファンのみなさんの中には「手を振って」ということかと、手を振り始める人もいましたが、マイク離してるのに歌声が?あれ?口パク・ヨンハ?…そう、実は口パクの演奏が流れていて、それに気づいたパクちゃんが演奏をやめさせたのです。日本縦断でパクちゃんの体調はずいぶん悪かったということで、それでもちゃんと歌うつもりのパクちゃんとスタッフの間で連絡がうまくいっていなかったようです。まもなくカラオケの演奏が始まり、パクちゃんの生歌に再び拍手!ちょっとつらそうなパクちゃんの歌がこれまた良かったです。パクちゃんの誠意が伝わってきました。 “ヨン様のソニーハンディカム”を片手に、スタンドのファンの皆様の撮影に当たった私ですが、プレスカードが見えず注意されたり、前に出るとみなさんの邪魔になったりで、早々に撮影をやめ、歌とトークを楽しむことにしました。おそらく女性たちの熱狂ぶりに驚嘆した男子カメラマンが目を丸くしてファンのみなさんを撮りまくるだろうから、おまかせです。ヨン様の家族としては慣れっこの風景ですが。 プロモでよく見ていたパクちゃんの歌を目の前で聞くことができて、本当にうれしかった! しかし、スポーツ担当としては、あのパクちゃんが我らが市民球場にやってきて、たる募金まで協力してくれて、たくさんの女性が球場を埋めて、多くの募金をしてくださって、もぉ〜!感動! カープの新井選手と尾形選手が登場して黄色い声援が沸いたときには泣きそうになりました。去年の奥田民生さんのコンサートに始まり、韓流にまで広がっていく市民球場、小さい頃から球場に通ってきた広島人としては、カープDNAが騒ぎますわい。 しかし、2時すぎ、会社に帰ってから地獄が待っていました。6台のカメラで回した膨大な数のVTR。OAは、4時台の『イブニング・ふぉー』、6時台の『イブニング・ニュース広島』、『eスポーツ』のコーナーと、3パート。それぞれのディレクターと編集者3班が同時に編集作業に入り、取材テープをダビングする間もないまま、テープの奪い合いが勃発。それぞれ編集のコンセプトは違っても、歌ってる場面はいっしょ。みんな目をつりあげて使いたいシーンをむさぼり、しまいにはどこにどのVTRが行っているのか誰も把握できない状態に…。ううっ、しかしOA時間は刻々と近づいてくるっ! ひとりで編集していた私も、欲しいシーンを求めて2段飛びで階段を20往復はしましたよ。そのテンパった形相にみんな道を空けてくれました。 しかし、そこはみんなプロ。何とか無事OAできました。ただ、お詫びしなくてはならないことが…。『イブニング・ニュース広島』のパク・ヨンハさん紹介部分で“冬ソナのチュンサン”の字幕スーパーが“チュンさん”になってたんです。韓流にまったく興味のなかった男性ディレクター高橋の仕業です。チュンじゃないよ! 私がついていながら何という失態…。みなさん本当に申し訳ありませんでした。 「おい、高橋!“チュンサン”だからな。“カン”がつくと、濁って“カン・ジュンサン”よーく覚えておくように!」 この日集まった「たる募金」は、何と屋内外合わせて142万1824円!!! この額は地元開幕戦の時の約2倍、1万円入れて下さった方も結構いらっっしゃっいました。恐るべしパクちゃんパワー! 遠くから来て何のこっちゃわからずに募金した方もたくさんいらっしゃったと思いますが、本当に感謝です。 怒涛のごとく過ぎ去ったパク・ヨンハファンミーティングでしたが、取材やインタビューに応えてくださったみなさん、手を振って下さったみなさん、本当にありがとうございました。時間の都合でOAできなかったみなさん、すみませんでした。また、カメラでお邪魔して、ご迷惑かけて申し訳ありませんでした。 そして、そして― 「パクちゃんありがとう、また来てね!」(ヨン様も来てね)
2005年4月25日(月) ただ今、報道センターで研修中
(新入社員)吉住 啓一
4月1日に入社して以来、研修で毎日各部署をまわっています。入社するまで知らなかった事ばかりで毎日が新鮮です。先週末から報道の研修に入りました。緊張した報道センターの雰囲気と、周りで忙しそうに働く先輩方に圧倒され、できるだけ邪魔にならないよう隅の方を通るよう心がけていますが…。完全に邪魔になっているようで申し訳ないです。 毎日、夕方のニュースの放送時間に向って慌ただしく人が動き回り、放送が出されています。普段、何気なく見聞きしていたニュースがこんなに多くの人によって送り出されていたということに驚き、そこで働く人はやっぱり、ポリシーを持って働いています。配属が決まるまでもうしばらくありますが、もし報道に配属が決まったら、できるだけ早く先輩方に近づけるよう頑張りたいと思います。 今日も夕方のニュースに向って周りの人の動きが慌ただしくなってきています。 (新入社員)松原 芳充
みなさんはじめまして、新入社員の松原です。ただ今研修中で、入社して以来様々な部署を研修しています。そして今週は報道の研修をしております。入社当初は会う人会う人知らない人ばかりで(そりゃ、当然ですが…)緊張のしっぱなしでしたが、最近では以前研修した部署でお世話になった方とお会いし、お話をしたりするとホッとしたりします。まさしく『心のオアシス』ですね。 会う人も初めてであれば、する仕事も当然初めてなわけで、右も左も分からない毎日ですが、楽しみながら笑いながら頑張って行きたいなぁ〜と思う昼下がりでした。 (新入社員)藤村 伊勢
入社して25日目、そして報道センターの研修が始まって2日目、出社するとセンター内は緊張した空気に包まれていた。福知山線の脱線事故が起こり30分余りしか経っていない午前10時。速報を知らせるためのサイレンの音が幾度となく鳴り響く。番組内容は急遽変更され、多くの時間、画面はこの脱線事故を映し出すこととなった。それと同時に、RCCには地元広島の出来事を知らせるという重要な仕事もある。午後は私たち新人もニュース取材班に同行し、県内の高校教諭対象に行われた不審者対策講習会を見に行った。先生方が半ば本気で竹刀を振り回しているのが印象的だったし、実際に取材する現場を見ることができて純粋に楽しかった。そして、ほんの数時間後にはそのときの様子が1つのニュースとなって流れていた。 多くのスタッフが紡ぎだす糸が織り重なり、1つのニュースが生まれる。 忙しく働く先輩方の横で、今はおろおろすることしかできないが、早く追いつきたいと思った。この気持ちを大切に、残り少ない研修を頑張っていきたい。 |