ホームページ(初めの一年分)について
 “広島ジャパネスク”は2005年3月末に始まりました。が、初めの一年間はホームページを立ち上げていませんでした。このため、ホームページには2006年春以降の取材記と「はがき絵」しか見ていただけない状況でした。
 この度の番組終了にあたり、初めの一年分(46回)が欠落したままでは担当者として納得がいかず思いが残ります。急遽ホームページを作成しました。6年半~5年半前の取材・放送ゆえ思い起こしながら顧みながらの文章になっていることをお許しください。
 これで6年半の「280回」の完結!です。
2011年10月12日
“広島ジャパネスク”アナウンサー 山 原 玲 子

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山原ギャラリー
2011年9月21日(水) 第280回 『復活!銅蟲』
 広島県の《伝統的工芸品》に指定されているものの一つに【銅蟲(どうちゅう)】があります。江戸時代の初め、広島藩主 浅野公に仕えた銅細工師が仕事熱心な余り《銅の蟲(むし)》という、今で言うニックネームがつけられたことに由来しています。そこから、ある技法によって作り上げられた銅製品を指すようになりました。
 銅蟲はどのようにして作られるのか―その技は3年前に絶滅しました。しかし、今復活しようとしています。"広島ジャパネスク"の最終回、私は新しく生まれ変わろうとしている「銅蟲」をどうしても取材したかったのです。
 3年前まで「銅蟲」を生産していたのは(有)伊藤久芳堂(広島市中区上幟町)。明治35年創業の初代(伊藤雪耕)の手になる花瓶を見せていただきました。銅に施された沢山の鎚目に、銀の象嵌で桜・牡丹・梟が細い鏨(たがね)の線で打ち出されています。気が遠くなるほどの仕事の細かさです。銅蟲の製品は茶碗・花瓶・水差し・煙草盆・菓子器・ペン皿など。小品は海外や他県からのお客様への土産品として喜ばれていました。が、生産をストップすることに―。「やはり時流に合わなくなったということでしょう。日本間もなくなった暮らしですから」と伊藤久芳堂 常務取締役の安部豊さん
 しかし、広島の伝統の技を絶滅させてはならない!と【復活プロジェクト】が立ち上がりました。広島市安佐南区大塚東の広島市立大学キャンパスに鎚音が響きます。芸術学部教授の若山裕昭さんを中心に卒業生の銅蟲研究員や在校生が銅蟲に取り組んでいます。研究員の原田武さん(26歳)『当金(あてがね)』に当てた銅板を鎚で休みなく叩きます。平面から立体へ。一つの作品が出来上がるまでにどれほど鎚を振り下ろすことか―。途中の詳しい技法は省きますが、仕上げは【藁燻し(わらいぶし)】というもの。稲藁を焼いた煙で燻すと、ピンク系の色が「飴色」に変わります。これを【色上げ】といいます。藁燻しをしないまま時が経つと銅蟲の色は変わっていきます。そうならないよう強制的に行うのです。藁燻しの仕方は文献に残っていないため、若山教授や原田さんは悪戦苦闘。温度や距離が違うと表面に「ムラ」が出来てしまいます。全体が同じ色に仕上がらないといけません。
 何種類か製品が出来上がっていました。マグカップ・冷酒グラス・ぐい飲み・ミルク差しなど。数え切れないほどの小さな鎚目が陽を受け「金のオーロラ」のように見えます。すぐにでも日々の暮らしに使いたいものがあります。「これからの銅蟲は美術品ではなく、現代の暮らしに合った身近に使える工芸品であらねばならない」と、若山教授は復活した銅蟲を【広島銅蟲】と命名しました。
 金工技術の全てを習得していないと取り組めない銅蟲づくり―産声を上げようとしている「広島銅蟲」を育てていくのは私たち消費者です。
☆銅蟲展  10月20日(木)~26日(水)
福屋八丁堀本店 7階画廊
~過去の名品の展示・新生「広島銅蟲」の販売~
 はがき絵は輪切りの木の幹に固定された様々な当金です。私の目にとても美しく映りました。今後、これらの当金を使いどんな「広島銅蟲」が作り出されていくのでしょう。
山原玲子


はがき絵

◎ありがとうございました!!

“広島ジャパネスク”は2005年3月末に始まって6年半、280回の放送を以ってお別れです。ごらんいただきありがとうございました。
 取材に協力して下さった多くの皆さん、ご厄介になりました。「地域の絆」がいつまでも、「伝統の技」がいつまでも、と願います。

はがき絵
(2011年9月21日更新)

今年も

 和紙を折って作る包みを《折形》といいます。一折り一折り“贈るこころ”も折り込む折形は日本の伝統文化。人生折々のお祝い事に自分で折って金品を贈りましょう、と日本文化に関心のある仲間が東広島に集い勉強を重ねています。
 今年も東広島の秋の大イベント《酒まつり》で作品展を開きます。“美しいカタチ”折形をどうぞごらんください。

日時:2011年10月8日(土)11~17時
         10月9日(日)10~16時

場所:東広島市“酒蔵通り”『賀茂泉酒造』

問い合わせ:電話 082-423-2118

賀茂泉酒造(当日は不可)

 2日間、山原は東広島に行く予定です。「賀茂泉酒造」でお会いしましょう。

山 原 玲 子

山原ギャラリー
2011年9月14日(水) 第279回 『中世遺跡“草戸千軒町”』
 福山市を流れる芦田川の河口に、中世一つの都市がありました。【草戸(くさど)千軒町】です。芦田川の河川改修工事の際川底から発見された遺跡は、その後発掘調査が行われほぼ全容が明らかになっています。その姿は、福山城のすぐ近くにある《広島県立歴史博物館》に出土品の展示・再構築された町の実物大模型という形で見ることができます。
  ~町の性格~ 今回は広島県立歴史博物館の主任学芸員 鈴木康之さんの案内で、まず遺跡が発見された芦田川に。①現在の大きな中州を中心に相当広い範囲に草戸千軒町があったこと。②年貢米の積出港として成立した後、芦田川流域の物資の集散する市場町・港町として発展。③町には塗師・鍛冶職人・番匠(建築職人)・貸金業者などが店を持ち、寺・墓地もあった、などが鈴木さんからの話でわかりました。
  ~人の暮らし~ 次に博物館の展示室へ。実物大模型はさっきまでそこにいた人たちが、一瞬にして姿を消し時が止まったかのようなリアルさ。魚や野菜を売る人の声・鉄を打つ音が聞こえてきそうです。漆桶・塗りかけの木地・漆刷毛・筆などが並ぶ塗師屋に入りました。「草戸千軒町の塗師の腕は大変高く、作られた漆器の仕事は細かく素晴らしいものですよ」と鈴木さん。漆器好みの私は、出土品の展示の中に「高度な技術」を探しました。たっぷりゆったりとした形の「片口」は、黒漆の地に朱漆で大胆な葉らしき模様。欠損した平椀には余計なものを取り除いた、少ない線で描かれたシャープな鶴。私を唸らせました。焼き物には、東南アジア生産の物も―。いかに流通網が発達していたかを物語っています。
  ~優雅な遊び~ 草戸千軒町の人は「雅な暮らし」をしていたようです。領主の館跡からは「須磨」「葵」「帚木」と『源氏物語』の帖名が記してある【聞香札(もんこうふだ)】が出土しています。京都に赴くこともたびたびあったであろう領主が「京の文化・風習」を草戸千軒町に持ち帰ったのではないか、と―。チョコレートの一かけらほどの小さな木の札【木簡】が「香を聞く遊び」を実証しています。鈴木さんは「京の公家とそれほど違わない時期に“源氏香”を楽しんでいたことになる」と。文化度も高かったのですね。嬉しい驚きです。
 ~遺跡が語るもの~ 「書かれたもの」(文字資料)は「時の権力者に都合の悪いことは記さず、改ざんもされる」と、聞いたことがありませんか。が、遺跡から出土した品々(考古資料)は「モノ」が語ります,証明します。中世の町の姿、文化・流通・暮らしを知ることになった草戸千軒町の発掘は、「歴史像」を結ぶ上で重要な役割を果たした調査だったのです。あなたも広島県立歴史博物館で中世にタイムスリップ!

 はがき絵は塗師屋の上げた蔀戸(しとみど)から表の通りを見た構図です。さぁ、何が見えてきますか。
山原玲子


はがき絵

 ☆ いよいよ来週(21日)が最終回。どうぞごらんください。

(2011年9月14日更新)

山原ギャラリー
2011年9月7日(水) 第278回 『駅弁と鉄道』
 1945年(昭和20年)生まれの私にとって《鉄道に乗ること》は、「日常」に対して「非日常」、「ハレ」と「ケ」でいえば「ハレの日」“心躍る日”でした。その上、重い木枠のガラス窓を上げ、プラットホームの売り子さんから求めた【駅弁】を頬張る嬉しさ。今も忘れることが出来ません。覚えているのが『浜吉(はまきち)』の駅弁です。
 (株)「浜吉」は山陽本線「糸崎駅」とは目と鼻の先にありました。1890年(明治23年)創業の浜吉は当初旅館業を営んでいましたが、2年後(1892年)駅弁の販売を始めました。それは【山陽鉄道】(後の山陽本線)が尾道駅から西へ延び、現在の糸崎駅が「三原駅」として誕生したその年のことです。浜吉は鉄道開通に合わせて駅弁を売り出したのです。以来119年!「シュッシュポッポ、シュッシュポッポ」―黒い煙を吐きながら進む蒸気機関車から電車へと、鉄道の姿は変わりました。
 浜吉の販売当初の駅弁がどういうものであったのか、資料は残っていません。現在、何種類か製造されている駅弁の中で、もっとも有名で「浜吉」を代表するのが『元祖珍辨たこめし』(珍辨=ちんべん)。販売は1953年(昭和28年)。私は8歳。これ、コレを親から買ってもらっていたのです。
 浜吉で料理長を務めていた高丸初太郎さん(87歳)の証言をまとめましょう。①糸崎近辺の海ではタコがよく獲れた。 ②舟釣りの時、醤油ご飯に獲れたタコを混ぜて船上で食べていたのが「たこめし」開発のヒント。 ③まだ明石ほかでは「たこめし」を販売しておらず「元祖」である ④「珍辨」の「珍」は、当時の社長の名『珍彦(うずひこ)』から採った。 ⑤糸崎駅は機関車や貨物列車の発着駅だったため、停車時間が長かった。ホームに「売り子」が立ち駅弁を売った、ものすごく売れた。
 さらに高丸さんは「今と違って、駅弁を食べながらゆっくりのんびり列車に乗っていた時代ですよ。味わいがありました」と、【普通列車の旅の味】を語ります。私は糸崎駅から上りの電車に。台風襲来前の空はドンヨリ。海は海鼠色。時に小雨。そして強い風。列車はよく揺れました。瀬戸内の島々は灰色の濃淡で重なりながら行き過ぎていきます。膝の上に置いた弁当の八角形の蓋を開けます。「あっタコ、タコ!」口の中でとろける軟らかさ。子どもの頃の大きな大きな感動、嬉しさ・幸福感が蘇ります。久し振りに頬張った駅弁に「日々、感動がありますか。感動を大事に生きていますか」と問われた気がした初秋の一日でした。

 はがき絵は山原玲子開発の《広島ジャパネスク弁当》です。蓋を取りましょう。彩り・味・栄養・食感のバラエティーを考え調製しました。好物の酢れんこん、干椎茸と手綱こんにゃくの煮物、焼き獅子唐辛子など敢えて色をつけませんでした。想像しながらお召し上がりください。

山原玲子
☆ お知らせ

 長年放送してきました「広島ジャパネスク」は9月21日を最後に終了します。
 あと2回の放送、どうぞお付き合いください。

(2011年9月7日更新)



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